中島岳志 論考 信濃毎日新聞 2011年4月19日
土橋牧師から死者との対話について、東日本大震災の後、信濃毎日新聞に掲載された中島岳志氏の論考をご提供いただいた。
救いとはなにかー。
今回の震災では、目の前で自分の家族が津波にながされた人がいるという。
自分が命を救えなかったという自責の念と無力感で、うちひしがれている人が多くいるという。
過酷過ぎる、かける言葉も見つからない。
まだ、被災地の多くの人は絶望の中にいるはずだ。
生きる事に前向きになりながらも、ふとした瞬間、途方もない虚無に襲われるだろう。
生きていて意味があるのだろうか、
そんな事を想起するかもしれない。
確かに、亡くなった大切な人は、ここにはいない。
姿かたちは存在しない。
しかし、その人は生者から死者となって存在している。
あなたの心の中に。脳裏に。
死者の存在は透き通っている。
だから、自己の心の中を直視してくる。見通してくる。
生きている時は不可能だった透明な関係が、死者との間に突如生みだされる。
わだかまりなんて存在しない。
二人の間の障壁は崩れ、心と心で繋がる事が出来る。
これまでなかなか言えなかった事も言える。
『ごめんね』も『ありがとう』も。
ここに大切な人との新しい関係が生まれる。
生きている人間同士では不可解な関係が、生者と死者の間で結ばれる。
これは新しい出会いだ。
透明な死者の存在は、生者に対して自己と対峙する事を要求する。
自分の心の中を、死者のまなざしを通じて直視する事を余儀なくされる。
死者との出会いは自己との出会いにつながる。
他者に言えない事、自分の心の中にそっとしまっている事、
無意識の思い。
死者とのコミュニケーションはそんな自己を掘り起こし、自己を凝視させる。
この行為は、苦しい。
自分の負の側面が、死者のまなざしを通して突き刺さってくるからだ。
自己の醜さに直面しなければならない。
心が痛い。見たくないものまで見なければならなくなる。
出来れば、そっと胸の奥にしまっておきたかったのに。
しかし、その出会いは、きっと人生を豊かなものに変革してくれるはずだ。
自己と向き合わず、誤魔化して生きるより、
死者によって自己と対峙しながら生きる方が善き人生なるはずである。
大切な人の死は、喪失であると同時に、新たな出会いでもある。
死は決して絶望だけではない。
死者とのコミュニケーションを通じて、人間は新しい人生を生きる事が出来る。
そんな姿を、死者は温かく見つめてくれるはずだ。
死者と一緒に僕たちは生きているのだ。
(北海道大准教授 中島岳志)
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